エンブリィ・リドル航空大学日記

 

 

 

エンブリィ・リドル航空大学採用面接試験 (20035)

 

 

 

ボクがエンブリィ・リドル航空大学・プレスコット・キャンパスの面接試験を受けたのは、2003年の5月の第1週目であった。

 

ここで、まず、アメリカの大学の専任教員採用に至るプロセスを簡単に紹介しておこう。大学によってもちろん異なるのではあるが、大体、次のようなプロセスを踏むのが普通である (らしい)

 

1. まずは、専任教員 (英語では、Tenure-Track Full-Time Faculty と言う) のポジションに空きがあることをアナウンスして、応募を募る。これは、いわゆる公募であるが、アメリカでは一般的な方法として、(1) 自分の大学の求人情報に広告を出す (最近ではほとんどの大学でインターネットで求人情報を閲覧できるようになっている)(2) ジャーナル誌の求人覧に広告を出す (最近ではこれらもたいていインターネットで閲覧できる)(3) めぼしい大学にファックスなどを入れて宣伝する (実はこれが最も効果的) などの方法を取る。卒業間近の大学院生は、これらの3つのどれかから大学の専任教員の公募の情報を手に入れることが多い。ボクの場合は大抵 (2) の方法で求人情報を仕入れていた。ボクの指導教授も就職のことを心配してくれて、毎月の求人情報をそれとなく僕のためにチェックしてくれて、ポジションの空きがあれば絶対に見のがさないような体制でバックアップしてくれたのである。これらの公募に応じて応募書類を送るのであるが、アメリカの場合、履歴書に手紙を添える程度の簡単な書式でよいので、応募書類の準備にはそれほど手間はかからない。ちなみに、日本の大学の専任教員に応募しようと思ったら応募書類を揃えるだけで大仕事である。ボクの場合、結局アメリカの大学30校、日本の大学5校に応募書類を提出したのであるが、ほとんどは書類選考の段階であえなく不合格であった ()。しかしながら、ヘタな鉄砲も数打ちゃあ当たるのである。アメリカの大学3校でナント書類審査に合格し、面接へと進むことができたのである。まさに奇跡であった。

 

2. 面接は一般的に2種類の方法がある。電話面接 (英語では、Phone Interview と言う) と直接大学のキャンパスに招いての面談 (英語では、On-Campus Interview

と言う) である。大体、電話面接の段階では候補者は5人から7人ほど、キャンパスに招いての面談の段階まで進むと、候補者は3人までに絞られているのが普通である。キャンパスまで候補者を招くと、宿泊、交通、食事、と全部が普通は大学側の負担となる (そう、費用を全部出してくれるのだ)。だから大学側としてもそうそう沢山の候補者の面接はできないのである。ボクの場合、3校のうち電話面接を経てキャンパスに招かれたのが2校、いきなりキャンパスでの面談に招かれたのが1校、すなわち3校全部のキャンパスに (全部大学側の費用持ち、すなわちタダで) 面接試験を受けに行ったのである。こう書くと、何という好待遇であろうか、などというように取られかねないが、面接はたいがい緊張の連続でヘトヘトに疲れ果てるものなのである。とても楽しいなどとは絶対に言えないものなのである。

 

3. さて、キャンパスに招かれての面接である。これは多分アメリカならではであろうか、まるまる1日みっちりと絞られるのである。まずは、ホテルに迎えに来る先生と朝食を共にするところから始まる (早朝7時頃か?)。この時点からジックリと観察されている。とても朝メシの味を楽しむどころではない。常に微笑を絶やさず、それとなくあたりさわりのないような会話に持って行かねばならない。そして、午前中、3人から5人くらいの先生の間をタライ回しにされ、それぞれ30分くらいずつ個別の面談をする。そして、昼食である。たいてい3人から5人くらいの先生に囲まれ、質問にいろいろと答えつつ昼メシを食う。当然味わっている余裕などはない。午後はキャンパスをあちこち案内され、感想などを求められる。これにもいちいちそれなりのコメントをしなければならない。さらに、摸擬授業と称して、実際のクラスの講義 (1時間ほど) をやらされる。もちろん、この摸擬授業で教えたクラスの学生からの評価も考慮される。さらに、50人くらいの教職員や学生たちの前で、自分のやってきた研究についての発表 (質疑応答を含めて1時間ほど) をやらされる。夕方になり、そろそろ疲れが見え始めたところで、だいたいその大学の一番エライ人との面談である (学部長又は副学長クラスがここで出てくる)。ここが勝負どころなのだが、ほとんどの場合はもうかなり疲れており、ワケわからないことを言ってしまったりして後で死ぬほど後悔することが多い。そして、もういい加減に許してくれえ、と叫びたくなるのであるが、夕食を共にしなければならない (9時頃までかな?)。これがまた、3人から5人くらいの先生に囲まれての食事である。この頃になると、もう疲れのあまり何が何だかワケわからなくなっていることが多い。舌はもつれるし、英語に交じって日本語が出てしまうこともある (当然、相手は意味が分からずアゼンとする)。そして、次の日、「ああ、何てこった、こんなムチャクチャな面接じゃあ絶対にだめだ . . . 受かるわけがない . . . 」などと落ち込みつつ、家路につくのである。これがだいたいのパターンであった ()

 

さて、本題に戻ろう。ボクがエンブリィ・リドル航空大学・プレスコット・キャンパスの面接試験を受けたのは、2003年の5月の第1週目であった。

 

当時のボクの状況は悲惨で、妻と1歳になる子供をかかえ、もう30代の半ば、日本で就職先が見つかるアテはなし、アメリカの大学でようやく学位を取ったはいいが、このまま路頭に迷うのであろうか? などと恐れおののいていた毎日であった。それまでに、すでに2校の面接試験 (と不合格) を経験していたボクは、エンブリィ・リドル航空大学・プレスコット・キャンパスの面接試験に呼ばれたものの、すでにあきらめに似たような気持ちがあった。面接試験に呼ばれる、ということはいちおう最終の3人の候補者の一人に残ったことを意味する。しかしながら、3人の中から1人を選ぶ、という意味では実は確率としては半分以下なのである。面接試験の結果不合格に終わった2校についてはあまり多くを語るまい ()。しかし、ハッキリ言わせてもらうが、わざわざ大学の面接試験にまで呼ばれて (すなわちかなりの期待を持たされたあげく) 不合格にされる、というような事態が2回も連続して続くと精神的にボロボロになってしまう (期待をさせられておいて裏切られるのは非常につらいものである)。それなら最初から呼ぶな、と叫びたくもなる。このようなワケで、このエンブリィ・リドル航空大学・プレスコット・キャンパスの面接試験、ほとんどヤケクソで受けたのである。実は前回の2校の面接時には、妻もかなり本気で、育児の合間をぬってわざわざボクの散髪をし、(当時) 1着しかなかったスーツはクリーニングに出し、(当時) 2本しかなかったネクタイにはていねいにアイロンをかけて送り出してくれたものである。しかしながら、結果は見事な不合格。文字通り2人して涙したものである。そして、3回目、このエンブリィ・リドル航空大学・プレスコット・キャンパスの面接試験においては、妻も「散髪したほうがいいな、でもまあいいか、どうせダメなんだろうし、」などと思ったそうであるが、ボクは結局、ボサボサ頭のままで、薄汚れたスーツを着て、ヨレヨレのネクタイを締めて、「どうせ受かるワケないんだから、せいぜいウマイものをタダで食ってやろう」みたいな、かなり開き直った態度で面接を受けたのである (当時、ボクは貧乏だったため、レストランになぞ行けなかった)。これが何故か結果としてよかったらしい。面接そっちのけで、いかにもうまそうにメシを食ったり (プレスコット一と言われるレストランで遠慮なく一番高い料理を注文してやったのだが、これが実は本当にうまかったのである)、しょうもない冗談を言って工学部長を爆笑させたり (だいたい、初めっから「どうでもいいや」って思ってたから言いたい放題)、どうもそういうとこが妙に気に入られたらしい (後でロン先生がこっそりと教えてくれた)。しかし、恐ろしい事実が後になって判明したのであるが、ボクと一緒に面接に呼ばれた他の2人の候補者、エンブリィ・リドル航空大学ではこの2人に順番に採用の通知 (英語ではJob Offer と言う) を出したのであるが、何故か2人ともそれを断わったらしい (他によい就職口でもあったのであろう)。結局のところ、ボクは第3の候補者だったのである。第1、第2の候補者に仕事のオファーを出したものの、どちらからも断わられたので、「まあ、あの日本人でもいいや」てな感じで決まったのであろうか? ロン先生にしつこくこの辺の事情を聞いてみたが、教えてはくれなかった(さすがは学科長である、口がカタイ)。アメリカの大学の選考基準って一体全体どうなってるんだよ? と言いたくもなるのだが、ボク自身はもうどうでもいいのである (仕事がもらえて本当にうれしかったのだ)

 

というワケで、約1ヵ月後の20036月のある日、突然エンブリィ・リドル航空大学工学部長のドン先生がボクの研究室に電話をかけてくるのである (この時点では、ボクは受かるなんてことは全然考えていなかったから、実のところ面接を受けたことすら忘れかけていた)。この電話一本で、アッという間にボクの就職が決まってしまったのである。

 

 

 

 

 

戻る

 

Copyright ©2004, Shigeo Hayashibara (All Rights Reserved)